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目の前の方が大切にしてきた 食の価値観に寄り添った在宅栄養ケアの実践

トップランナーたちの仕事の中身#076

矢治早加さん(医療法人社団明正会錦糸町クリニック、管理栄養士)

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 東京都内の錦糸町駅からしばらく歩いた先にある医療法人社団明正会錦糸町クリニック。訪問診療専門のため、患者の出入りはなく、ビルの前にシルバーの軽自動車が到着してはスタッフを乗せて次々に出かけていきます。2、3階にある同クリニックのフロアはまるで会社のようで、医師、看護師、管理栄養士、医療相談員、医療事務等の職員のデスクがずらり。朝と夕方には多くの職員が1フロアにいるため、患者の診療方針や支援の方向性を多職種で共有しやすいという利点があります。管理栄養士の矢治早加さんは、同クリニックに勤務して10年目。平均して1日に3件ほど、月に40件以上の在宅患者の訪問をこなしています。

 同クリニックの井上貴裕院長は、クリニックで管理栄養士を常勤として雇い、在宅訪問栄養食事指導を任せる理由を次のように話します。「当院は訪問診療を通じて地域医療を展開し、地域への貢献を図っています。久しく言われてきたように『医食同源』であり、『食は命と健康の源』です。管理栄養士は当院においては医療グループと"両輪"の関係で、私たちが地域医療を展開する上で、なくてはならない存在です」
矢治さんが働き始めた当初は、同法人内の他のクリニックから外来栄養指導の依頼を受けて担当することもありましたが、在宅訪問栄養食事指導の依頼件数が年々増えており、療養者の自宅を訪問する毎日になっています。

在宅訪問の仕事に集中できる、バックアップ体制

 移動は医師や看護師と同じように車。自分で運転する日もあるが、ドライバーが付くときも多くあります。「ドライバーさんに運転してもらうことで、移動の車中でも他職種に電話をして相談や報告ができたり、電子カルテに入力したりすることができ、とてもありがたいです。また、訪問先までの移動ルートを調べたり、駐車場を探したりする時間がかからないため、在宅訪問の仕事に集中できます」と矢治さん。
 ドライバーの存在によって医療職がそれぞれの役割に専念できるのと同時にドライバー等のスタッフを雇用することでシニア世代の働く場を創出し、同法人が重視する地域貢献にもつながっています。矢治さんを担当することも多いドライバーの宇梶哲さんは、「先生たちの診察は30分ほどで終わるけれど、管理栄養士さんは特に初回のお宅では長くかかることが多いですよね。食べることについての相談はそれだけ必要とされているのだなと私も分かってきました」と話し、管理栄養士の在宅訪問栄養食事指導の良き理解者であることがうかがえます。院長をはじめとする、こうしたバックアップ体制に後押しされ、矢治さんは在宅訪問というフィールドに情熱を注いできました。

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目と肌感覚でもスクリーニング

 矢治さんが訪問先でまず行うことは、玄関先で「失礼いたします」と挨拶をして、自分の靴を揃えること。相手のプライベートな空間である家庭に入るため、何回目の訪問であっても慎重に対応。そして、"目"と"肌"でスクリーニングをしていきます。
「何を大切にして過ごしていらっしゃるのか、今どのようなことに不安や負担を感じているのか、まずはご本人とご家族の表情を拝見し、ご自宅の空気感を察することに努めます」と話す矢治さん。なぜなら、管理栄養士に在宅訪問栄養食事指導の依頼が来るのは、在宅療養・介護の期間がある程度経過した段階が多いため。在宅での療養や介護が始まってすでに数カ月あるいは数年が経っている状況では、療養者本人や家族に、療養生活の流れや介護の方法が固定化されています。矢治さんはこれまでの生活や介護に敬意を払い、その点を汲み取った上で、管理栄養士としての仕事を進めるようにしています。

 これは、クリニックに勤務して2〜5年目の頃の苦くもうれしかった経験に基づいています。当時は、総合病院から転職したばかりの20代半ばで、病態や障害についての知識も限られていて、矢治さんがもがいていた時期でもありました。
当時担当した90代後半の女性は加齢に伴う摂食嚥下機能の低下から食欲の低下が見られ、訪問診療医から在宅訪問栄養食事指導の依頼が入りました。主たる介護者はその息子である男性。妻に先立たれた後に母の介護をしてきた男性は、懸命に介護をしていたため、管理栄養士からの提案には渋る様子が多々見られました。しかし、母の食事の準備は自分が食べる料理を"母が食べやすくするために"と、細かく切る程度だった。「すでに介護を熱心にしてきた息子さんに、食形態がふさわしくないと一方的に伝えるだけでは角が立ってしまいます。細かく切ったものをマヨネーズと和えたり白和えにしたりするのはどうかと伝える等、今、行っている食事作りの延長になるようにアドバイスをしました」
 毎日のお粥作りも男性には負担がかかっているようだったので、スープジャーに温かいご飯と熱湯を入れて数時間放置するだけでお粥ができあがる方法を提案。後に、それを試した男性から鍋でのお粥作りでは吹きこぼれがあったことを打ち明けられ、信頼してもらえていることが少しずつ感じ取れるようになりました。女性の誕生日には嚥下機能に合わせたケーキを用意して、記念写真を撮影してプレゼントした。その後、女性は矢治さんが育児休暇中に亡くなったと聞き、復職後に弔問に訪れると、遺影はかつて矢治さんが誕生日に撮影したもので、思わず涙がこぼれたそう。「介入当初は距離を感じていたご家族から、『矢治さんに来てもらって本当によかったよ』と声をかけていただき、在宅訪問栄養食事指導の可能性に改めて目覚めた出来事でした」

在宅で生きる、病院での厨房業務経験

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 矢治さんは管理栄養士養成校を卒業した後に、総合病院で非常勤の管理栄養士として3年間働いていました。厨房業務もあり、当時経験した栄養指導は糖尿病や脂質異常症の集団栄養指導や、胃切除後の退院時栄養指導等限られたものでした。「その頃の私はオーダーメイドな栄養指導ができず、患者さんが変わっても自分が話すことが同じ内容ばかりでもどかしさを感じていました」と矢治さんは振り返ります。
 退職した後に見つけた現在のクリニックでの仕事は、在宅療養者の訪問が主で、対象とする年齢層は広がり、病態も格段に増え、同じ内容の栄養指導になることは皆無になりました。それでも、総合病院での3年間のキャリアが生きる場面が多々あるといいます。たとえば、厨房業務でさまざまな治療食と食形態を準備してきた経験は、訪問先の家庭で作られた料理や市販の惣菜からおよそのエネルギー量や摂取栄養素を概算するのに役立っています。在宅の現場ではルーティン化した作業は特にないという矢治さん。食事記録を書いてもらうこともほとんどありません。それは記録より聞き取りを重視しているから。「さっき肉じゃがを食べました」の一言から、誰が買い物をしてきたのか、誰が調理したのか、誰と食べたのか、誰がどのように片付けたのか、食べ残しはどう保存しているか等、食にまつわる質問を広げて答えてもらうことで、栄養状態を改善させると同時に在宅療養者本人と家族の負担や不安を解消するためのアドバイスの内容を変えていくからです。
「最後のそのときまで食べたいものを安全に召し上がっていただくために、栄養状態を管理して食べられる身体にすること、食べられる環境にしていくこと。在宅訪問栄養食事指導の仕事を今、心から楽しんでいます」

プロフィール:
2010年大妻女子大学家政学部食物学科管理栄養士専攻卒業。同年より都内にある総合病院に非常勤の管理栄養士として3年ほど勤務。2013年に医療法人社団明正会に転職、在宅療養者を訪問して行う栄養食事指導が主な仕事に。育児休暇中の2022年に、在宅栄養専門管理栄養士を取得。(医)明正会機能強化型認定栄養ケア・ステーションの責任者も務める。公益社団法人東京都栄養士会所属。

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