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「ジャパン・ニュートリション」を世界へ(前編)

ジャパン・ニュートリションの歩み、栄養学の導入と栄養欠乏

公益社団法人日本栄養士会代表理事会長 中村丁次

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 18世紀、ヨーロッパで誕生した"nutrition"を、日本人の誰が「栄養」と最初に訳したのか? 大阪大学の井上善文は、多くの古文書の解読や関係者へのインタビューから、江戸末期に活躍した蘭学者 高野長英であることを探り当てた1)。高野は1832年、日本で最初の生理学書「西説 医原枢要」を執筆する際、蘭語のvoeding(英語のnutritionやfeeding)の訳語として「栄養」を最初に造語した。我が国は、1868年の明治維新により、欧米の学問が広く導入されたが、その前から翻訳により「栄養」の概念は紹介されていたことになる。1859年、イギリスからヘボン博士が来日して横浜に診療所を開設、近代医療を紹介した。そこで学んだ者たちは「英米横浜学派」と呼ばれ、その中には、日本の臨床栄養の発展に貢献する福沢諭吉や高木兼寛らがいた2)。一方、1869年(明治2年)に日本政府が導入したドイツ医学は、実験医学を基本にしたために、「英米横浜学派」と対立した。いわば、日本の栄養学は、臨床栄養学はイギリス・アメリカ英米から、基礎栄養学はドイツから影響を受けたことになる。
 明治政府は近代国家の成立を目標に「富国強兵」を掲げ、国民の体位向上が国策として不可欠であるとし、栄養価の高い肉食を推奨した3)。日本ではそれまで、天武天皇の「肉食禁令発布」以降、江戸時代まで肉食は敬遠され、雑穀中心の食事をしていた。1873年 (明治6年)、貨幣による納税や 養蚕業等で現金収入が得られるようになると、米の消費量は増大したが、脱穀技術の進歩により、多く人々が栄養欠乏症に悩まされた。特に、顕著に表れたのが軍隊であった。海軍の高木兼寛は、脚気の原因は食事にあると考えたが、陸軍の森林太郎(森鴎外) は、「細菌感染説」を主張して対立した。高木兼寛は、1882年(明治15年) 12月から南米を航海した海軍練習船で脚気が多発したことを深刻に受け止めて、1884年(明治17年) 2月から軍艦「筑波」を用い、洋食の脚気の予防効果を検証した。なお近年、城戸秀倫らが、メタアナリシスによる高木兼寛の実験航海の再検証を行った4)
 上記のような取り組みにより、栄養学の重要性が認識されるようになり、佐伯矩は、1914年(大正3年)、東京芝白金三光町に「栄養研究所」を設立した5)。1920年(大正9年)には、研究所は「国立栄養研究所」として内務省の付属機関に位置づけられた。国立とした理由には、当時の深刻な栄養不足があった。近代化により国民の収入は増加し、人々の食事は徐々に改善しつつあったが、第一次世界大戦による好景気で工業労働者が必要となり、農家からの人材が流出して米の生産量は伸び悩んだ。しかも、地主商人米穀投機により売り惜しみや買い占めを始めたため、米の価格は高騰した。主要都市で「米よこせ」の反政府運動が発生し、各地で集会や焼き打ちが起こり、運動への参加者は100万人を超えた。
 それ以降、日本国民の栄養不良は悪化し、第二次世界大戦の終戦前後には飢えの苦しさはピークに達した。1942年(昭和17年)、政府は『食糧管理法』を制定したが食糧不足で機能しなかった6)。配給だけでは栄養必要量を満たすことはできず、闇市が横行した。1947年(昭和22年)には、東京地方裁判所の山口良忠判事が法律を守る立場にある正義感から闇米を拒否し続け、餓死するという事件が起きた。1946年(昭和21年)における、国の配給による1日の栄養量は1,209kcal、たんぱく質は32.2gであり、庶民には法を破らなければ、生きていける道はなかった。

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栄養士の誕生と日本栄養士会の創設

 佐伯矩は、研究所からの情報発信だけでは、国民の栄養状態を改善することが困難だと感じ、1924年(大正13年)に「栄養学校」を設立した。翌年、第1回の卒業生13名が誕生し「栄養手」と呼ばれ、栄養士の先駆けとなった。1945年(昭和20年)、国は『栄養士規則』を制定した。そして、1947年(昭和22年)には『栄養士法』が公布された。上記のとおり、配給では栄養必要量を満たすことはできず、多くの餓死者が出現したことにより、国民の間でいかがわしい栄養食品や健康法が流行したため、栄養学に基づいた指導者が必要であった。1945年(昭和20年)、終戦3カ月前の5月21日東京大空襲下で、空襲の合間を縫って、帝国ホテルで「大日本栄養士会」設立総会が開催された10)。そして、「第一回日本栄養士会総会」は、1946年(昭和21年)10月21・22日の両日、宝塚劇場で、佐伯規、GHQ内にあるPHW(Public Health Welfare)からサムズ大佐やハウ大佐、厚生省の三木局長、さらに大阪と兵庫の知事も参加して、盛大に開催された。
 栄養士が誕生して社会が安定してくると栄養状態は徐々に改善した。それによって皮肉なことに、栄養士不要論が出始めた。1951年(昭和26年)、地方制度審議会から、『栄養士法』廃止の議論が起こった。日本栄養士会は、貧困層や地方の栄養改善は未だ不十分であるとの理由で反対運動を起こし、廃止法案を阻止した。このことにより身分法だけでは、明確な職業として根づかないことがわかり、栄養改善推進のための新法の成立を目指した活動を展開した。それにより、1952年(昭和27年)、国民の健康、体力の向上を図ることを目的に、『栄養改善法』が制定された7)
 この法律で栄養士の配置義務が明記された。集団給食施設に栄養士を配置し、栄養価の高い食事を提供するとともに、栄養教育を行った。学校給食、産業給食、病院給食、福祉施設給食などに栄養士を配置して、その業務を「栄養指導」と言った。このことにより、どのような場で外食しても、健康な食事と栄養にアクセスできる環境を作りあげることができた。特に、成長期であり食生活が形成される時期である学童期に、学校給食制度により栄養教育を徹底させた意義は大きい。また、戦争直後に活躍した「キッチンカ―」も、そのことの象徴的存在である。
 アメリカでは、農業技術の進歩によって生じた過剰食糧を外国に輸出する必要があり、輸出先に日本が選ばれた。1954年(昭和29年)、日米間で「米国余剰農産物受け入れに伴う、市場開拓費の使途」の会議が行われた。しかし、日本には食糧を購入する資金がない上に、米を主食にしていた日本人に小麦粉や乳製品を普及させることは困難であった。
 議論の末、アメリカ政府がしばらくの間、購入費を肩代わりし、その代金の一部を輸入食品の宣伝・普及費に使ってもよいという条件で決着した。日本政府は、輸入食糧の宣伝・普及費で「キッチンカー」を購入し、栄養士と食生活改善普及員が乗り込み、日本の隅々まで栄養指導を行った9)。アメリカの「食糧政策」を、日本人は栄養不良を解決する「栄養政策」に衣替えしたのである。
 このことを可能にしたのは、戦前から養成していた栄養士と、終戦直前に誕生した日本栄養士会の存在である。

生活習慣病の出現と管理栄養士制度の進展

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 1960年代以降、食事の欧米化により肥満や非感染性疾患(生活習慣病)が増大し始めた。この疾患は、個人の習慣や代謝異常が誘因となることから、栄養士養成には、医学教育の充実が必要になった。1963年(昭和38年)、栄養審議会は、「栄養学士の称号を取得できるような専門の学部、学科を設置すること」の建議を厚生大臣に提出した。文部省は、国立徳島大学医学部栄養科に管理栄養士養成のコースを認可した。しかし、管理栄養士の定義は「複雑・困難な業務をする者」とされて役割が不明のままに登録制として放置された。この状況は2000年の法改正まで、約40年間続いた。
 この間、1982年(昭和57年)に大事件が起こった。政府は行政簡素化の一環として、『栄養士法廃止案』を検討したのである。日本栄養士会は、栄養士法廃止阻止運動の先頭に立ち、嘆願書を募り、国会前でデモを行った。反対理由として、「我が国には栄養問題がなくなったのではなく、むしろ過食による非感染性疾患が増大し、栄養問題は複雑化しているため、栄養政策は国の重要な政策である」と主張した。結局、政府は非感染性疾患の予防に積極的に取り組み、管理栄養士をその指導者として残すことを約束して、『栄養士制度廃止案』は廃案となった。
 しかし21世紀を前に、我が国の栄養は方向性を失っていた。当時、過栄養による生活習慣病が増大する中、傷病者や高齢者に新たな低栄養が出現し、このことが医療費や介護費の増大に関係していることが解ってきた。しかし、解決の方法論が見つからなかった。1997(平成9年)8月、厚労省に「21世紀の管理栄養士等のあり方検討会」(座長:細谷憲政)が立ちあがり、多方面から検討が重ねられて「管理栄養士は、栄養評価・判定に基づく傷病者への栄養管理ができる、「人」を対象とする栄養専門職種とすべきだ」と結論づけられた。
 この報告を受けて2000年(平成12年)、『栄養士法』の改正が行われ、管理栄養士が登録制から免許制になり、受験資格の見直しが行われ、管理栄養士の新たな定義と業務が明確にされた。2002年(平成14年)、『栄養改善法』は『健康増進法』へと改正され、管理栄養士の役割は、献立の栄養管理から傷病者自身の栄養状態の管理へと変化し、給食ではなく人間の栄養管理の技術料として診療報酬、介護保険が算定されるようになった。2000年の法改正以来、20年間の間に、管理栄養士は疾病の一次予防である保健、二次予防の医療、三次予防の福祉のすべてに専門職としての業務を位置づけた。

>後編に続く(4月6日頃公開予定)

<文 献>
1)井上善文:「漢字「栄養」のルーツをたどって」p.68、フジメディカル、2020
2)新井保男:近代西洋医学事始め,「日本近代医学の黎明」pp.13-56,中央公論新社, 2011
3)太田美穂:食の近代化と栄養学,「近代化と学問」pp.117-33,総合研究センター,2016
4)城戸秀倫他:メタアナリシスによる高木兼寛の実験航海の再検証,慈恵医大誌,119,279-85,2004
5)佐伯芳子:「栄養学者佐伯規」,玄同社,1986年
6)藤原弘道:日本栄養学のあゆみ(第二部),食生活,54,61-86,1960
7)国民栄養協会:栄養士法と栄養改善法,「日本栄養学史」pp252-258,1981
8)早野貴文:栄養士法のルーツと管理栄養士・栄養士の明日,日本栄養会雑誌,62,3-11,2019
9)大磯敏雄:ようやく栄養行政も活気を取り戻す,「混迷のなかの飽食」pp.197-224,医歯薬出版,1980
10)八鍬志郎:栄養士制度の推移,「社団法人設立50周年記念誌」,pp.26-57,社団法人日本栄養士会,2009
11)原正俊:栄養士制度の発展、栄養改善法から健康増進法へ,「社団法人設立50周年記念誌」、pp.130-140,社団法人日本栄養士会,2009
12)藤沢良知:栄養士、管理栄養士は21世紀を支える専門職種,「栄養士・管理栄養士まるごとガイド」,pp.8-14,フットワーク出版社,2000

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